原作「氷川丸ものがたり」
第一章 氷川丸 軌跡のはじまり
第二章 戦前―シアトル航路時代
第三章 病院船氷川丸
第四章 病院船から復員船、引揚船へ
第五章 ふたたび外航路へ
第六章 引退そして新しい使命
あとがきのあとがき
かまくら春秋社発行
定価 1,500円+税
「氷川丸」は1930年竣工。神戸、横浜と米西海岸シアトルを結ぶ「動くホテル」と呼ばれる日本郵船の豪華貨客船だった。太平洋戦争中は病院船、戦後は復員船、引揚船として運航。そして再び客船として復活する数奇な運命をたどった。
2015年は戦後70年の節目。戦争と平和の近現代史を刻み込んだ氷川丸の記録を若者に伝えたいと思い、「氷川丸ものがたり」を上梓した。
病院船に改装された氷川丸は船体には大きな赤十字がいくつも描かれ、手術室やX線室、火葬場まで設けられた。取材を始めた1977年、病院船氷川丸の初代院長を務めた金井泉・海軍軍医大佐(院長当時)は郷里の信州・松本に健在だった。
「軍人である前に医者として、医者である前に人間として、戦況よりも戦傷者の容体を――。これが赤十字の精神です」。
敵味方の区別はなかった。墜落した米軍パイロットを収容した際には大きな体に合わせて特製ベッドを作った。食事には特別にパンを焼いた。
戦後、氷川丸は復員船として再び南方に向かった。満州(現中国東北部)からの一般市民の引き揚げにも使われた。戦前と同じ貨客船として復活したのは1953年のことだ。
戦後の氷川丸を彩る出来事といえば、1959年の宝塚歌劇団の北米公演がまず挙げられる。天津乙女、黒木ひかる、浜木綿子らが横浜港で氷川丸に乗船し、和服姿で船上から手を振った。
氷川丸は1960年に引退し、翌年から山下公園で係留・公開された。
時は遡ることは出来ても、起きたことを覆すことは出来ない。であるならば、過ちを繰り返させないために、記憶を風化させないことだ。(星槎大学教授 伊藤玄二郎)